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こうして、フィリピンは宗主国たる合衆国と最も強く政治的かつ経済的に結びつき、米国はフィリピン人に穏健な民族主義を描いて、スペイン統治時代の遺産を残しつつ、フィリピン固有の統治を造り出そうとした。

 

(4)フィリピンの独立−国内整備に向けて−
フィリピンは1935年、その独立に好意的であった米国の意向もあり、独立準備政府たるコモン・ウェルス体制を発足させ、米国議会が制定した法律に基づいて米国大統領の承認を条件とする憲法を制定した。その後、第2次世界大戦が勃発し、フィリピンは日本軍政期に突入した。日本はフィリピンを独立国として扱い、かいらい政権を樹立したが、実際上、フィリピン人は合衆国に忠誠を誓ったままであった。最終的に、米国により独立が承認されたのは1946年になってからであり、フィリピンは第3共和国として誕生した。
フィリピンでは戦後の復興に向けて国内体制づくりが始まり、外国から多くの支援が行われた。主なものとして、1950年の米国からの経済使節団がある。この使節団は、フィリピンに対するあらゆる技術援助プログラムのみならず、社会の成長、政治的安定などに向けた行政改革の必要性を表明した。また、戦後の混乱した状況下での汚職などの横行によって、官僚機構が歪められていることを認め、政府全体のリストラ、人事の改善、最新のマネジメント技法の導入などの報告を行った。

 

(5)独裁体制期−戒厳令(martial law)体制−
1960年代に入り、フィリピン経済は急速に発展した。それに伴い、外国資本の投資制限、合衆国との貿易協議、国内産業のフィリピン化などの要求が高まり、次第に農業への依存度、米国の独占度は減少した一方、依然として富裕層は汚職によって政府から利益を享受した。
他方、1950年代から反政府運動が高まり、政治的な不満が増大していった。1970年代初頭には、新しい共産党が出現すると共に、ムスリム分離主義運動の軍備保有という事態に至った。
こうした状況下において、F・マルコス大統領は1972年、フィリピン社会を巻き込んだ騒乱に対処し、国家開発に向けて指導的立場を担うテクノクラート体制の確立を目指すために戒厳令を布告した。
さらに、大統領は、1973年憲法を公布し、大統領権限を強化した。その結果、議会は停止し、マスメディアは統制され、軍部の積極的な関与によって行政府は中央集権化され、支配者たるエリートによる政治・行政制度の再編が行われた。
この独裁体制の結果、マイナスの経済成長、巨額の対外債務、多くの貧困者の発生、アジア最大の共産主義による反乱などが惹起された。フィリピンは世界銀行から多額の資金援助を受け、国内企業は多国籍企業に依存せざるを得なくなった。富裕層

 

 

 

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